会長挨拶

小田原柔道協会 若林会長


 
平成25年度から中学校で武道必修化が始まりました。
全国の中学校の64%にあたる約6,800校が柔道を実施しております。小田原市内において柔道選択の中学校は、城山、白山、白鴎、泉、城北、橘の7校であり、剣道は城南、千代、国府津、酒匂の4校です。柔道の目的は嘉納治五郎師範の説かれているとおり、「人間形成」であり、心身の鍛錬を通して「己を完成し社会に貢献する人をつくることにあります。

 また正しい柔道の修行は、柔道の原理、基礎をしっかり学び、競技としての成果を上げるだけではなく、生涯スポーツにもつながります。日常の実生活においては、柔道を学んでいたため受身の効用で第一に頭を打たなくなる、又、滑って転んでも上手に倒れるから「ケガ」し難くなります。学校の「いじめ」とか、多少のことで負けない強い精神が養われます。あいさつや礼儀作法が学べます。

 ベテラン指導員が皆様方の御入門をお待ちしております。



指導員の紹介

山口 正伸師範(7段)
全柔連B級審判員
神奈川県形講師

<火曜日担当>

真田 昭和(3段)
 諏訪部 高広(4段)
 厳しい稽古は必ず将来の糧になります。一緒に頑張りましょう。  楽しく元気に頑張りましょう!!

<木曜日担当>

石田 昌之(3段)
岡本 晴男(6段
 柔道を一生続けられるよう、
楽しみながら一緒に学びましょう!
 基本をしっかり学びましょう!

<金曜日担当>

浦郷 道仁(2段)
神戸 悟(4段)
 人間教育に重点を置いて指導しております。


指導員OBのみなさん
石渡 義男 小田原柔道協会名誉会長

秋山 幸雄 先生(6段)


道場の歩み

文武館の歩み
 小田原において講道館柔道が組織的な活動に入ったのは、明治 38 年(1905 年)のことでした。小田原在住の青年有志が集い、小田原保勝会で活躍していた拝郷勇が中心となって、小田原町立尋常小学校同窓会体育部に柔道班をつくり、師範として佐竹信四郎参段(早大柔道部師範、南米の柔道開拓に貢献)を招聘しました。

 その後指導は、小田原の生んだ豪快な柔道家として三船久蔵十段の”柔道一路”に紹介された半田義麿初(後九段)が当たることになりました。道場は、当初茶畑の正恩寺(本町4丁目)の本堂を使用。10数人の修業者で稽古を開始。後に小学校の裁縫室を借用したり、船大工小屋を譲り受け、稽古を行ったと伝えられております。

 明治 40 年(1907)拝郷 勇、尾崎亮司(小田原保勝会)の力によって、現在の三の丸小学校の校庭の南西隅に新築の道場が完成。講道館長、嘉納治五郎の命名により修養館と名付けられ、修練を続けることになりました。この頃、修業者は漸次増加して小中学校生徒、一般青年を加え約 30 数名で活気みなぎる稽古が行われ、道場内で英語、漢文なども勉学、真に小田原の修養道場として面目を示してまいりました。数年間、活発な活動を続けた修養館も元来少数の有志によって運営されていたため、次第に経費の不足を生じ中断止むなき時もあり、大正 12 年(1923)再興を機に文武館と改名しました。

 新しい館名は、文政 5 年(1822)城内三の丸後勘定所跡に大久保忠真が藩校集成館を設立、その一名を文武館と称し、再興した道場がその一角にあったことに由来します。その由緒ある文武館の名称は、武道に精進する市民はもとより、近隣近在の若者達まで永く誇りとしてまいりました。

 その後、諸般の事情で道場が転々と異動し苦労が払われましたが、昭和 11 年(1936)小田原地方の文武修練の殿堂として、恒久的な道場を建設しようと機運が盛り上がり、町当局より箱根口門跡の一部に土地借用の許可を得ました。建設資金は、関係者一同苦心を重ね寄付金を募ってその目的を達成しました。初代館長には、建設に最も功労のあった金野房雄、師範半田義麿七段の陣容でその時より剣道も加わり、文武高揚の時世、新装なった道場では、意気盛んな稽古が繰り広げられました。

 小田原が市制を施行したのが昭和 15 年(1940)12 月、その記念すべき年に当たって文武館を市に寄付することになりました。その後戦時中も館の運営は順調に進展しておりましたが、終戦時、GHQの政策により武道稽古中止の通達が出て一時中断、助産所として活用された時期もありました。
昭和 21 年春に活動を再開。
昭和 24 年(1949)小田原柔道協会結成。
昭和 26 年(1951)学校柔道復活を記念して当時の中央公民館で記念柔道大会を嘉納履正講道館長、佐村嘉一郎十段、女子柔道の第一人者、乗富政子五段を迎え開催しました。

 その年、全日本柔道選手権大会に優勝した醍醐敏郎六段による十人掛けは、満場の観衆の注目を集めたばかりではなく、その後の小田原柔道発展の大きな布石になりました。昭和 30 年代にかけて、昇段審査会、県大会、全日本の関東予選等も開催され、県西地区に於ける唯一の武道練成道場として、その役割を果たしてきました。永年に亘って幾多の俊英を輩出してきた文武館も老朽化が目立ち、昭和 55 年(1980)取り壊される時には、小田原から歴史を偲ぶ風情がまた一つ失われていくことに、多くの市民から大変惜しまれました。

 寒風が吹き荒む夜、稽古着一枚で取り組む若人を道行く人がしばしば足を止め眺めていた姿は城下町小田原の懐かしい風物詩でもありました。
 現在は、永い歴史を誇った文武館からすぐ近く、昭和 55年(1980)に建設された小田原スポーツ会館に移りました。

 諸先輩が築いた文武館の伝統の灯を消すことなく、小学生から社会人まで女子を含めた会員が熱気ある稽古を行っております。明治・大正・昭和と長い風雪にもたえ、木目に歴史の年輪が刻み込まれた「文武館」の扁額は、今でも新しい道場の白壁の上から平成の若き柔道家達を暖かく見守り、励ますかのように語りかけています。

(平成 6 年小田原柔道協会総会資料掲載手記より抜粋)小田原柔道協会 武田敏治